基隆港に面した中正公園は憩いの場として基隆市民に広く親しまれている。山頂にある巨大な観音像は高さ20メートルにも及び、港に入る船の目印としても役立っている。木々に囲まれた散策路も整備され健康のために毎日ここを訪れる周辺住民も多い。
旧称を「旭岡公園(旭ヶ丘公園)」といい年配者にはこの言い方でも通じる。園内には忠烈祠、運動場や活水会館(SPA)も整備され、休日には多くの人で賑わう。標高は高くないが山道なので、電車で基隆を訪れた人はタクシーを利用すると便利だ。
観音像は高さ22メートル、港を一望できる高台にある
頂上付近からの展望は基隆随一で天気の良い日は水平線から基隆港までを一望できる。日本統治時代は台湾と日本をつなぐメイン港として現在以上の賑わいを見せたそうだ。日本向けの石炭や樟脳はほとんどがこの港から出荷され、日本に送られた。また敗戦後の日本人の帰国もこの港から行われた。
(記事は基隆観光情報にも追記されています。)
園内の忠烈祠は日本統治時代に基隆神社とされていた場所で、建物自体は撤去されているが基礎部分などに当時の面影を見ることができる。付近には台湾統治初期に台南で病死した日本の皇族である北白川宮能久親王の記念碑もある。台湾にあった神社の多くはこの人物を祭神として祀っていたところが多く、旧基隆神社も例外ではない。
往事の基隆神社
また 『中元』の祝祭時にはここがメイン会場となり、大変な賑わいを見せる。基隆の中元行事は正式名称を『雞籠中元祭』といい、雞籠とは基隆の古名・別名である。
この雞籠中元祭は全台湾最大の中元祭りで、タイミングが合えば是非観覧して欲しい。毎年異なる姓の一族が主催を勤め、それぞれの姓の一族が総出で準備をし、年々その規模を大きくしながら盛大に祝われる。もともと基隆当地の「張廖簡、吳、劉唐杜、陳胡姚、謝、林、江、鄭、何韓藍、賴、許 」の一族が持ち回りで主催していたが、戦後「李、郭、黃、王、曾、楊、柯蔡、邱丘、蘇周連、鐘蕭葉、白、余徐涂、董童」の一族が集まって連姓会というものが作られ、輪番制に加わって十二周期となった。その後、連姓会の一部が主催に加わったりと紆余曲折を経て、現在では十五周期で輪番制が行われている。2013年は『謝』姓の一族が主催を行う予定である。
中元とは本来道教の神である地官大帝の誕生日を祝う日で、この日だけ現世に帰還を許された地獄の鬼たちが人としての生活を思い出し、許しを得るための行事である。特に水上交通の要所である基隆では陸上だけでなく水上の魂の安息を願い、海上でもさまざまな行事も行われる。他の地域にはない特色のひとつである。
農暦の一日からほぼ一月を掛けて大小様々な催しが行われ、しかもその内容は主催する姓氏に一任されているので毎年内容が異なる。時に古風に、時にモダンに、毎年異なる趣向の祭りが楽しめるのが基隆中元祭の最大の特徴といえるだろう。
農暦七月一杯は基隆市内の主要道路に『老大公燈』などと呼ばれる明りが設置され、夜間は常に灯される。これは現世に戻ってくる先祖の魂が道に迷わないようにという意味がこめられており、基隆の夏の風物詩となる。
最大の見せ場は農暦十四日から十五日に掛けてである。農暦十四日の午後から基隆市内中心部では交通管制が敷かれ、外部車両の進入ができなくなる。夜七時からは大小様々な花車と学校や市民サークルの集団が様々な趣向を凝らし、各宗主会の行列と共に市内各所を巡回する。これを『水燈頭繞境』といい、大変賑やかである。この儀式に続き、当日の潮の満ち引きにあわせて『放水燈』と呼ばれる儀式が行われる。
市中を練り歩くド派手な花車、市民や学生のパレードがこれに続く
水燈頭繞境が終わった後、各一族の水燈頭は海洋大学の入り口に集まり、所定の儀式を行った後、様々な供物と共に火をつけられて海に流される。これは水上で亡くなった魂に道を照らすための明りを提供するためであるといわれており、水燈が遠くに流されれば流されるほど、火の勢いが強ければ強いほどその一族の運勢が強いことを表しているという。
様々な供物と共に海に流される水燈
農暦のしかも潮の干満にあわせて行わるので毎年日時と時間が一定しておらず、観光客を対象とした祭りでもないため、この行事をとことん楽しむためには入念な事前準備が必要だ。しかし基隆最大の賑わいを見せる花車の市中練り歩き、非常に厳粛に行われる放水燈は一見の価値がある。期間中は有名歌手のコンサートなど様々な催しも行われるので、時間が合えば是非訪ねてほしい。
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