難易度:☆ 調理時間:30分以内
本日はお手軽中華おかず『雞粒豆腐│鶏肉と豆腐煮込み』のレシピを紹介します。鶏肉と豆腐をシイタケベースのソースであんかけにしたおかず料理です。もともとは広東料理だそうですが、中国各地で家庭料理として広く食べられます。
台湾で「雞」のつく地名といえば…、まず連想されるのが基隆│Keelung。台湾初心者には「??」かもしれませんが、基隆は古くは「雞籠」と呼ばれていました。というわけで基隆の歴史をざっと振り返ってみましょう。
古代基隆の地は台湾原住民ケタガラン族(凱達格蘭族)の一支族バサイ族(巴賽族)が支配していました。前史時代は国家的集落の運用もされていたようで、古代日本人や漢人と交易なども行っていたそうです。
明朝末から清代にかけて多くの漢族が移入してきてからケタガラン族はすぐに漢人と同化し、清朝末期には漢人とほぼ変わらない生活を行っていました。日本統治が始まったころにはすでにケタガラン族独自の文化というものはほとんどなくなっていたそうです。現在のインドネシア語などの祖語に当たる独自の言語を持っていたそうですが、文字を持たなかったためそのほとんどは文化と共に失われてしまいました。現在の台北市周辺にもケタガラン属の支族が多数居住していたため、一部の地名はケタガラン族語に由来します。例えば龍山寺のある「艋舺」地域や「北投」はケタガラン族語に由来します。
このケタガラン族語では現在の基隆地域を「ケーラン」 のように呼んでいました。17世紀に入ってから1626年にスペイン人が、1642年にオランダ人が、1668年に鄭成功が、その後1683年に清朝が基隆一帯の支配者になりめまぐるしく領有者が変わります。スペイン人支配が始まった当時、すでに福建省からの移民らが多数居住しており、この漢人らがケーランに「雞籠」という漢字を当てます。清朝時代を通してしばらくは基隆は平和に発展を続けます。
清末の1875年、清政府はここに台北分防通判を置き、ケーランと近い音でさらに「基地昇隆」の意味を込めて、鶏籠から基隆(キールン)に地名を変えます。この後、基隆の歴史は第一次世界大戦終結まで怒涛のように流れていきます。
1884年にフランス軍が基隆に上陸し、基隆市外を占領。これに対して劉銘傳率いる清軍が出撃し清仏戦争が起こります。最終的にフランス軍が上陸を諦めて退却し、これを機に台湾は福建省から独立して台湾省に昇格することになります。劉銘傳は台湾巡撫(最高位の地方統治官)に就任し、数多くのインフラ・産業の整備に取り掛かりますが、台湾経済をまったく考慮せずに行われたため台湾は財政難に陥ります。この時、現在基隆の各地に残る砲台跡地や台北から基隆に抜ける鉄道トンネルなどが作られました。
そして1895年に日本が台湾を接収。基隆港は推進の浅い比較的簡素な港でしたが、日本政府が出資をして改修工事が行われ台湾産の樟脳や米を日本に輸出するための一大港湾都市に変貌を遂げます。第二次世界大戦終了後もコンテナ取扱量が世界トップ10に何度もランクインしたりと貿易都市として発達してきました。近年はコンテナ取扱量も下降気味でかつての港湾都市の賑わいはありませんが、台北に近い立地を生かした観光文化都市化を進めています。ケーランから雞籠、そして基隆へ。基隆市は清末から近代までの列強の歴史が詰まった魅力的な都市ですので、台北観光のついでにぜひ足を伸ばしてみましょう。当ブログの基隆観光情報も参考にしてください。
[材料]
鶏もも肉 ……… 1本(約300g)
豆腐 ……… 1丁
干しシイタケ ……… 2個
ニンニク ……… 2個
ネギ ……… 少々
水 ……… 60cc
水溶き片栗粉 ……… 小さじ2
[調味料]
醤油 ……… 大さじ3
砂糖 ……… 大さじ1
[作り方]
1.鶏もも肉の骨を除き、一口サイズに切る。干しシイタケは水に浸けて戻し、みじん切りにする。シイタケの戻し汁はとっておく。豆腐は2cm角のさいの目に切っておく。ニンニクはみじん切りにする。ネギはみじん切りにする。
2.熱したフライパンに大さじ1のサラダ油(分量外)をひき、作り方1の鶏もも肉と干しシイタケを弱火で2分ほど炒める。続いてニンニクを入れて香りが出るまでいためたら、豆腐とシイタケの戻し汁、醤油、砂糖を加えかき混ぜながら沸騰させる。最後に水溶き片栗粉でとろみを付けたらネギを散らして完成。
Point!
水をだし汁に変えたり、豆板醤を加えたりと色々工夫してみましょう。少量の味噌を加えても美味です。
0 コメント :
コメントを投稿