艋舺龍山寺
艋舺とは万華の古名で、龍山寺は台北市で最も古い寺廟である。台湾を最早期に開拓した漢人たちが、開墾の安全を祈願するために福建省泉州の晋江、南安、恵安の三地の祖神を合祀して1738年に設立した[1]。同年台北北部で疫病が流行し、病魔を追い払うために、福建省晋江県安海龍山寺の観世音菩薩を分霊して祀るようになったのが龍山寺の始まりといわれている。現地の民間信仰の中心であるだけでなく、議事、訴訟、試験などの祈願をするため台湾全土から参拝客がある。
1884年、清仏戦争でフランス軍が基隆市を占拠したときに、当時の名士たちが義勇軍を組織し、陳情書を作成し龍山寺の公印を受けて時の大臣[2]劉銘傳に共闘を直訴した。清国軍は義勇軍と協力しフランス軍の撃退に成功し、当時の皇帝から「慈暉遠蔭[3]」の額を贈られている。
最初期の龍山寺は精緻な彫刻の施された雄大な建築であったとされるが、1815年に地震により倒壊、再建される。1867年には台風により再び倒壊、修復されている。大正8年(1919年)にシロアリ被害により建造物が被害を受けるが、当時の住職である福智大師が率先して寄付を行い、寺院の改築に成功した。
第二次世界大戦時(1945年)、空襲により中殿が全損する。当時の住民は中殿にある菩薩像の蓮台の下に隠れて空襲を避けていたが、奇跡的に蓮台は残り、空襲による死者は出なかった。住民はこれにより観世音菩薩への信仰を更に篤くしたという。1955年に再建された龍山寺は現在も艋舺住民の精神的支えとして日々参拝に訪れる人が絶えることはない。
第二次世界大戦時(1945年)、空襲により中殿が全損する。当時の住民は中殿にある菩薩像の蓮台の下に隠れて空襲を避けていたが、奇跡的に蓮台は残り、空襲による死者は出なかった。住民はこれにより観世音菩薩への信仰を更に篤くしたという。1955年に再建された龍山寺は現在も艋舺住民の精神的支えとして日々参拝に訪れる人が絶えることはない。
龍山寺は南向きに建てられ、格子状をしている。中国古典三進四合院の宮殿式建築に則っており、前殿、正殿、後殿、左右の護龍により構成される。前殿は三川殿、龍門殿、虎門殿に分けられる。三川殿の前には台湾ではほとんど見ることのできない銅製の一対の蟠龍柱[4]がある。壁には三国演義[5]と封神榜[6]などをモチーフにした彫刻が施されており、教育的な意義にも富んでいる。正殿は歇山重簷式[7]であり、四面には合わせて42本の柱で構成されている。壁には古今の著名な書家による石刻がある。殿内の螺旋藻井[8]は釘一つ使わない木組みのみで作られている。後殿には儒教、道教の神が仏教の神とともに祀られており、祀られている神の総数は100柱を超える。左右の護龍にはそれぞれ鐘楼と鼓楼が配されており、明け方には鐘を撞き、夕暮れには鼓を鳴らして時を告げる。龍山寺の太鼓は実は日本統治時代の台北神社[9]に奉納されていた物。終戦後台湾省立博物館に寄贈され1949年に龍山寺に貸し出しされていたが、紆余曲折[10]を経て現在も龍山寺に置かれている。屋根には鳳凰や麒麟などの吉祥のモチーフが数多く飾られており、色彩華麗にして彫刻精緻、台湾剪粘芸術[11]の精華といわれる。
龍山寺には観世音霊籤と呼ばれるおみくじがある。内容の解釈はこちら。
[2] 欽差大臣、皇帝の全権委任を受けて特定の目的のために臨時で任用される大臣のこと。劉銘傳は台湾防衛の任についていた。同時期の欽差大臣に左宗棠(フランスとの講和担当)や李鴻章(日清戦争の講和担当)などがいる。
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